加古川の商工業の歴史

昭和50年代(激動期)
姉妹都市マリンガ市

 

マリンガ市全景

▲マリンガ市全景

 

 

パウリーノ市長(当時)と滝川会頭(当時)

▲パウリーノ市長(当時)と滝川会頭(当時)

 

 

収穫まぎわの大豆畑

▲収穫まぎわの大豆畑

 

 

 

ブラジル連邦共和国パラナ州と兵庫県との友好提携の関係から昭和47年6月、パラナ州マリンガ市から片山裕氏がマリンガ市長の代理として兵庫県坂井知事を訪問、姉妹都市の紹介を依頼した。

 当時の加古川市は、工業整備特別地域の指定をうけ、神戸製鋼所の誘致などによって産業都市化を進めていた時期でもあり、県内の都市の中でも沿革、規模等から加古川市が最良であるとの判断が下り、加古川市にも勧奨、マリンガ市にもその旨を回答することになった。

 その後、日系ブラジル連邦議員の訪問、パラナ州経済使節団の公式訪問、長谷川加古川商工会議所会頭のマリンガ市訪問等の交流を続け両市提携への気運が高まった中で昭和48年6月、加古川市議会において姉妹都市提携を議決、同年7月稲岡加古川市長一行がマリンガ市を公式訪問、盟約に調印した。

 

 

マリンガ市のプロフィール

【マリンガ市】

 人口30万人(日系人3万人)面積473km2(加古川市の約3.4倍)年間平均気温21.8度、その地形、道路網の発達、緑の多さなどからブラジルで最も美しく住みやすい土地といわれている。
産業面ではコーヒー、大豆、綿花、牧畜などの農業が基幹であったが近年の工業化政策によって近代産業文化都市へと大変貌を遂げつつある。

 

昭和50年代(激動期)
創立30周年記念事業(昭和57年)

 昭和54年11月1日、第三代会頭に滝川松男氏が就任。前会頭、長谷川末吉氏に名誉会頭を委嘱した。
滝川体制になったことにより、以前から、手がけていた商業開発をはじめ、山積みする地域開発をより一層推進するためにまず、駅前再開発、日毛用地開発、南北道路建設及び高架・駅北開発分科会を設置した。

また、それら諸問題と当然関連してくる行政との連繋を密にし、開発問題等に会議所を挙げて取り組んできた。昭和57年10月、懸案であった加古川ショッピングデパートが完成。
続いて昭和59年2月には日本毛織加古川事業所の遊休地にダイエーを核店舗とするニッケパークタウンが完成、営業を開始した。

これら、大型小売店舗の加古川進出については、地元業者に対する影響の大きさなどを充分に考え合わせ、当所としては全国でも類を見ない方策をつくり出した。
消費者ニーズにこたえて地元商業者と大型店の共存共栄の道を考え出したものである。
後のページで詳解するが、その方法が「商工会議所指導型」といわれるものである。

 当商工会議所会館建設については、昭和52年3月、会館建設準備特別委員会を開催し、会館建設にむけての方策を検討する一方、55年以降は会館建設に関する視察見学会を全国各地で展開、都市型ホテル併設構想の大きな参考とした。

 昭和57年、加古川商工会議所は創立30周年の年を迎えた。記念事業の一環としてヨーロッパ商工事情視察研修旅行や永六輔氏の講演会・記念ゴルフコンペなどを開催し、同年9月、30周年記念式典を市民会館大ホールに於いて盛大に挙行した。

 

加古川地域に初めて電話がついたのは

 加古川地域に初めて電話がお目見えしたのは、明治45年4月のこと。
わが国の電話創業が、明治23年12月東京・大阪間においてサービスが開始されて以来22年後のことです。
創業当時、東京ではコレラが流行中で、遠くまで声が伝わる電話だから、伝染病も伝わるんではないかと大いに心配した人々もいたとか。また、電話があるとご用聞きの仕事がなくなるという流言が広まり、商店の小僧さん達は電話に大反対であったそうです。
ある村では、初めて電話が開通するとのことで、電話機を神棚に祀って、児童や父兄が日の丸の旗行列を行い、赤飯を炊いて祝ったという話もあります。

 

加古川で最初の銀行は

 明治27年8月3日、明石に本店を持つ第56国立銀行加古川支店が設立された。これが加古川で最初の銀行である。

 その後、昭和11年12月12日、第38銀行姫路支店、神戸岡崎銀行、第56銀行、西宮銀行、灘商業銀行、姫路銀行、高砂銀行の7銀行が合併し、太陽神戸銀行の前身である神戸銀行が誕生した。

 ちなみに明治27年8月当時県下では91店舗の銀行があった。