加古川の商工業の歴史
会議所指導型の理念が
引きつがれたニッケパークタウン
▲パークタウン建設前の日毛加古川工場遊休地
▲オープンに詰めかけた人たち 昭和59年2月8日
▲中心商業地の活性化へ大きな期待がよせられるニッケパークタウン
ニッケパークタウン計画は、日本毛織が繊維部門の事業を縮少した同社加古川事業所の遊休地利用として53年に話が持ち上がり、54年2月、同工場の東側半分、41,542平方メートルをダイエーを核店舗にスポーツ施設、屋外プラザなどを取り入れたパークタウンにする計画で、当商工会議所に計画案を提示。
当所日毛用地開発分科会では、この計画案を受けて地元商店街との共存共栄をはかり、地元商店街が有利に商業活動ができるよう三条申請前に10数回にわたり、レイアウト、店舗面積などについて審議を重ね、大筋で合意ができていた。
しかし、細かい点で地元商店街との意見がまとまらず、さらに通産省の大型店出店規制通達などもあり、計画は延び延びになっていた。
そして再々にわたる話し合いの結果、57年4月地元商店街と日本毛織との間で大筋の合意が成立。
同年10月大店法に基づく3条申請を県に提出、12月商業活動調整協議会において結審し、計画発表以来4年3ヵ月ぶりに事業着手に向けてスタート。
10ヵ月の工事期間をへて59年2月オープンを迎えた。
このニッケパークタウン計画についても、地元商店街が共存共栄ができるよう、また当所会員を優先に地元商業者が有利な条件で出店できるように“指導型”を堅持し、調整を行った。
行政指導型による南部開発
山陽電鉄別府駅改造とグリーンプラザ別府計画
▲グリーンプラザべふ建設予定用地
多木化学が計画した山陽電車別府駅周辺の商業開発は昭和56年6月に同社が商工会議所へ指導、助言を求めてきたのが始まり。
この計画によると同社が別府駅南に所有している52,800平方メートルをショッピングセンターを中心として、文化、スポーツ、レクリエーションなどの施設を付設するというものであった。
57年12月には、商工会議所から市に対して市南部地域、特に山電別府駅周辺が都市計画上の開発が必要であるかどうかの判断を求めた要請書を提出。これに対して58年1月に市からは、「山電別府駅を中心とする南部地域は市の商業地区として拠点開発すべきものである」という回答を受けた。
さらに60年3月には市から「同開発計画が充分に市総合基本計画にそったものであるので商業開発について商工会議所の指導、調整をお願いしたい」という依頼があった。
これを受けて同年5月には、当所総合開発委員会が開かれ、市南部の総合開発の核として位置づけることで大筋を了承した。
その後、小売市場等の反対運動があり、商調協における調整の段階となっている。
計画概要によると「グリーンプラザべふ」(仮称)は約61,000平方メートルの敷地にイトーヨーカ堂を核店舗にした地上3階、地下1階、延べ床面積34,600平方メートルのグリーンプラザビルのほか、平屋建て450平方メートルの専門店モール、3階建てのスポーツ館を建設。また、駅舎の改造及び駅前広場の拡充とそれに接して店舗、事務所などが入る建設計画であった。
▲当時の山陽電鉄別府駅
(写真中央)