加古川の商工業の歴史
昭和40年代(幕明け期)
▲加古川商工会議所15周年式典の様子
昭和42年6月、加古川商工会議所創立15周年記念式典が加古川公会堂に於いておこなわれた。
この時点での会員数1,475人。創立当初の3倍にまで増加した。そしてその翌年会館建設のための特別委員会が設置され新所屋(加古川産業会館)建設に向けての一歩が踏み出された。
昭和39年9月、加古川市は工業整備特別地域の指定をうけ、昭和30年代中頃より続いた大企業の加古川市への工場進出は神戸製鋼所加古川製鉄所の建設という形で一つのピークを迎える。
臨海部を中心に、工業化がますます顕著になり工業従業員の社宅等の建設が進み、その結果、他府県からの流入人口が、急激に増加した。
この時点で当地域は基幹的重工業を基礎とする、かなりの厚味のある工業構造を実現したともいえる。
その一方で、これまでものべたように、国鉄西明石-姫路間の電化完成による通勤時間の短縮、東加古川駅の開業、38年の県営神野団地造成等、阪神地区の衛星都市(ベットタウン)的性格の明確化とあいまって、加古川市は、その人口面においても東播磨地区における中核都市として、その役割を担うことになる。
当所においては激動する社会情勢と商工業をとりまく諸状況に対応するためにも独立会館の建設は急務のことでもあった。
昭和41年5月、商工会館建設促進についての陳情を市長並びに市議会議長宛に行い、2年後の昭和43年2月、会館建設特別委員会を発足させ新会館建設への作業を急いだ。
昭和40年代の加古川市は、人口の増大、モータリゼーションの進行という状況をかかえながら、都市機能整備の本格的取組みの遅れから中心商店街における自動車交通の増加による影響が顕著であった。
なかでも当市の表玄関、加古川駅の周辺については、駅前区域の整備・再開発だけでなく、駅舎改造のあり方、駅北地区の開発、西地区商店街の振興等々、それに関わる諸問題とも連動させた都市づくりの観点から考えねばならない必要に迫られていた。
当所でも、そのような状況のなか、日本毛織(株)に対して、駅前地区にあるニッケグランド約7,000坪を一括して市に譲渡されるよう要望書を提出し、実現をみた。
昭和40年代にはいってからの都市構造の変化によって、その必要に迫られた東播臨海地域の開発整備と加古川駅周辺地区の再開発問題は、検討折衝が続けられていた。
昭和45年11月、第二代会頭に長谷川末吉氏が就任。前会頭大橋實次氏に名誉会頭を委嘱した。翌46年2月、用地買収問題等で難行し、一時的に解散状態にあった会館建設特別委員会が新発足、再び新会館建設への歩みを始めた。
また、その翌月、日本商工会議所より商業近代化地域計画策定(モデル都市)の指定を受け、昭和46年5月、商業近代化事務局を加古川市役所内に設置、商業近代化加古川地域部会(部会長、長谷川会頭)の委員、顧問、参事に学識経験者、各界代表者を委嘱し、商業近代化計画策定事業に着手し、全230頁に及ぶ「加古川地域商業近代化地域計画報告書」を完成させた。
なかでも、早期建設が望まれていた商工会議所の新会館設立問題が、この計画報告書に基づいて、新設される加古川産業会館内(7階)に当所が入所することで決定され、昭和46年7月には地鎮祭がとりおこなわれ、翌47年10月に竣工をみた。
昭和27年、当所創設以来、20年間にわたり、一切の業務をとりおこなってきた国鉄加古川駅前の日本運送加古川支店2階の事務所から、新会館へ移転することとなり、ときに10月21日に新会館披露パーティ並びに当所創立20周年記念式典が盛大に挙行された。この時点での当所会員数は1,460人に昇っている。
また、この当時、中心商店街の商業振興に役立つべく、昭和48年10月に寺家町商店街の老朽化しているアーケードの改修工事に係る助成について県知事宛に要望書を提出し、寺家町商店街は昭和50年3月に、駅前商店街は昭和51年2月にそれぞれ竣工した。
加古川産業会館完成
昭和43年から取り組んできた懸案の会館建設計画が実現。昭和46年7月、新会館(加古川産業会館)の地鎮祭が行われ、翌47年10月竣工をみた。写真下は約20年間事務所がおかれ、今日の加古川商工会議所隆盛の基盤づくりの舞台となった国鉄加古川駅前の日本運送加古川支店の建物である。
▲昭和46年完成した加古川産業会館、7階が事務所になった
▲約20年間、2階に事務所が置かれた加古川駅前の日本運送の建物