加古川の商工業の歴史

昭和30年代(黎明期)商工業発展の芽生え

日本製麻兵庫工場

▲現在のサティの前身であった日本製麻兵庫工場

 昭和30年代にはいると会議所活動も創立当時のあわただしさから解放され、具体的な会議所活動を展開してゆく。
昭和30年3月、今後の活動の基礎作りともいえる「加古川商工会議所業務に関する規約」と「加古川商工会議所議員選挙並びに選任に関する規約」を制定した。

これらは、これまでの社団法人商工会議所(現行商工会議所法制定以前)では、会員総会が最高意思決定機関であったのに対し、その運営の経験を再点検し、また特定商工業者の意思を十分に反映させるため、公正な手続きによって、会員および特定商工業者が選任する議員によって構成される議員総会をもってそれに替え、会議所の組織および運営に関する重要事項はすべて議員総会の決議事項とし、能率的かつ実効的な運営を行えるようにした現行商工会議所法の制定にのっとったものでもあった。

 加古川市はその地理的条件や規模において近い将来、地域の中核都市となる条件を備えながら昭和30年代においてはまだまだ交通問題等都市機能の問題からいっても充分ではなかった。
昭和30年代の会議所の活動の多くはこれら都市機能整備に注がれたといっても過言ではない。
その背景にあるものは急激なモータリゼーションの到来でもあった。昭和30年8月、西側地区との文字通りかけ橋でもある加古川大橋の補強と幅員拡張についての要望書を建設大臣宛に提出したのを皮切りに、バス路線の拡張と増車、国鉄西明石~加古川間電化促進、阪神~播磨間を結ぶ幹線道路の整備促進、東播地域南北線連絡道路問題、播磨工業地帯の指定に対応するための工業用水確保問題等々、現在加古川市における都市基盤の骨格ともいえる案件の要望書を昭和30年前半から後半にかけて関係機関に提出している。

 昭和30年代を前後半部に分け、当時の経済状況等を簡単に分析すると前半期は、例えば人口面において隣接の明石市及び高砂市と比較してみると32~35年にかけて明石、高砂がそれぞれ50%、32%の増加に対し、加古川市は14%増にとどまっている。
当然、その背景にある産業活動についてみても、例えば工業生産では両市がそれぞれ昭和30年から35年にかけて2.53倍、2.11倍の伸びを示したのに対し加古川市は1.84倍の伸びに過ぎない。
また、商業販売額(年額)の面でも昭和33年から35年にかけて、明石市が60%近くの伸びをみせているのに対し40%程度の増加にとどまっている。このような昭和30年代前半にみられる経済的停滞の最も大きな原因は、この期における国民経済発展の牽引車的役割を果した工業、なかでも成長業種の重化学工業の集積が加古川市では極めて脆弱であったという点が挙げられる。
この面では、高砂、明石の場合と極立った対照をみせている。
このため、恵まれた産業立地条件をかかえているのにもかかわらず、いわば阪神間も含めた周辺地域のベッドタウン的な役割を負わされてきたわけである。

しかし、昭和35年以降の推移をみると局面はかなり好転しはじめている。例えば、昭和35年から38年にかけての工業出荷額の伸びは高砂、明石両市を上回る勢いを見せている。
その背景には、昭和35年以降の巨大な設備投資をテコにした高度経済成長、地域開発の躍進がある。
この時期には既成四大工業地帯を中心とした工業開発が「集積の利益」の限度をこえて、用地、交通麻痺、公害問題の登場等々、いわゆる「密集の弊害」という局面にぶつかり、工業の地方分散が活発化しはじめたわけである。
それらの時代背景もその一因となって昭和34年加古川地域周辺が播磨工業地帯の指定をうけることになる。その結果、加古川市については、神戸市をはじめとする阪神間からの工場進出が相次ぐことになった。

 時代の流れというものは一時期だけを取り上げて論じたところで不鮮明になってしまうだけで歴史的なかかわりと長期的な動きの中で初めてとらえることが可能になってくるものであろうが、この昭和30年代後半の動向については特に今日の加古川市の商工業の相当の範囲の骨組みを作りはじめた時期という意味で特筆されるものかもしれない。

 

市制アンケート調査

▲商工会議所にて行なわれた市制アンケート調査 昭和36年8月

水道本管布設工事

▲水道本管布設工事(水足地区)昭和34年当時