加古川の商工業の歴史

明治から経済を支えてきた産業

日本毛織印南工場

▲繊維部門がフル操業をしていた頃の日本毛織印南工場

多木化学工場

▲昭和40年代当時の多木化学工場

昭和天皇

▲昭和31年、日本毛織印南工場を視察された昭和天皇

印南工場の運動会。

▲その当時の印南工場の運動会。
家族もあわせると総勢5千人を超える加古川の秋の風物詩でもあった。

 

 商工会議所設立当時、加古川市における地場産業の構成はタオル、靴下、建具といった家内工業製品に、その大多数が占められていた。今日のような中央の大企業の工場進出も、まだ始まっておらず、人々の暮しもその豊かな地理的条件を生かしきれたものでもなかった。

 そのなかにあって明治17年より別府村において操業を開始していた多木肥料製造所(現在の多木化学株式会社)と、大正8年よりその主力工場を印南の地に置き生産活動を始めていた日本毛織株式会社の2大工場は県下屈指の生産高を誇る工業都市加古川の芽生えともいえる。

 

靴下工場

▲靴下工場

全国からの集団就職組が加古川駅を降りた

▲全国からの集団就職組が加古川駅を降りた

さよなら列車

▲昭和59年1月、惜しまれつつ
62年間の幕を降した日のさよなら列車

別府鉄道

▲多木製肥所(多木化学の前身)の陸送の柱であり、
地元の人の足でもあった別府鉄道