加古川の商工業の歴史

日本の商工会議所のおいたち
明治・大正・昭和初期の商工経済団体

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 加古川商工会議所の歴史を紐解く前に、商工会議所制度の誕生と歩みを簡単にご紹介します。

 開国と明治維新を果したわが国は、ヨーロッパ諸国にならって工業化の途を進み、政治的、経済的に独立を維持しようとしたが、前途には、いくつかの難関が横たわっていた。
そのひとつが、いわゆる不平等条約であった。
後に、商法会議所が条約改正について建言した文章をひけば、「現行ノ条約ハ旧政府ノ末路 我邦未ダ外ニ交際ヲ開カズ 内ニ経験ナキノ時ニ当テ成立スル者ナレバ、其規則ノ如キハ我得喪ヲ研究シ利害洞察シテ定ムルニ遑アラズ、タダ当時ノ形勢ニ随ヒ止ムヲ得ザルニ出ル者ナリ。今試ニ之レヲ以テ欧米各国ノ間ニ行ハルル者ニ比セバ、一モ斯クノ如キ偏頗不公理ノ者アルヲ見ザルベシ」とある。

 不平等条約といわれる理由は、それが相手国に対して、領事裁判権すなわち治外法権を認め、関税は協定によって定め、かつ最恵国待遇を与えるという内容をもっていたからである。
ヨーロッパ諸国におくれて工業化にのり出したわが国が、それに成功するためには、幼稚な国内産業を関税によって保護する必要があった。

しかも保護関税は、アメリカやドイツが採用した政策でもあった。
かかる際に、関税を自主的に決定できないことは、極めて不利であったし、治外法権についていえば、外国人が密輸をおこなっても、日本政府は処分できない状態であった。
一言でいえば、当時のわが国は、国際社会において、まだ1人前の扱いを受けていなかったのであり、条約改正は政府も国民も共に求めるところであった。

そこで、明治4年10月、欧米諸国と不平等条約改正の準備交渉と実情を視察するため、岩倉具視を特命全権大使とし、各省の逸材をよりぬいた一行が編成された。
一行は、先進諸国の諸制度を視察して、明治6年6月~9月にかけて帰国した。
この米欧回覧の成果がわが国の殖産興業の指標となるにいたったのである。

国の進むべき理想は高く掲げられ、貨幣制度、銀行・会社制度等近代経済制度の移植整備、近代産業の移植育成、外国貿易の振興、海運業の保護育成等諸施策が講じられる一方、関税自主権を回復して近代産業の育成をはかるために不平等条約の改正を急ぐことになった。
このような明治の進取の動きの反面、旧秩序・旧商習慣に慣れて商工業に従事してきた者のなかには新時代にただちに適応できず、五里霧中に彷徨し、幣制の混乱もあり、倒産に瀕する者もあらわれ、また奸商がばっこし、さらに扶禄を離れた多数の士族が失業者となって街に溢れ、加えて幕末以来の打ち続く騒乱に人心は落ちつかず、商工業の衰退は著しかった。

 ここにおいて、政府は、明治9年5月、内務省に勧商局(明治11年12月に廃止され、商務局に移行)を置き、商工業の保護奨励をはかろうとした。
そしてこの際、政府は、協力を求むべき業界の機関が欠如していること、とくに条約改正の折衝に際し、関税その他の重要問題について、商工業者の世論を代表する機関がないため、交渉上不利をまぬがれないことを痛感、勧商局に命じ、欧米諸国の商業会議所の組織・内容を調査させ、業界にその設立を呼びかけた。

時あたかも商工業界も、商工業の不振を打開し、新しい秩序・慣行を作りあげていくために、意見の交換、世論の喚起、業界の協力一致をはかる必要に迫られていたときでもあり、ただちに政府の勧奨に応じ、まず東京で、さらに東京商法会議所にならって各地で商法会議所を設立するにいたったのである。
この商法会議所が母体となって、その後、その活動環境の変化に応じて、種々の商法会議所関連の法律の施行を経ながら、昭和2年4月、政府は商工会議所法を公布、翌3年1月施行した。
この法律の大きな特徴は、商業会議所の名称が商工会議所と改められるとともに、商工会議所が名実ともに商工業の全般を代表する総合経済団体となるよう組織および機能を整備充実しようとしたことである。
商工会議所法に議員総会と部会の設置がはじめて法定され、また会議所の全国的組織として日本商工会議所が法定されるに至った。この商工会議所法において、その第1条で、はじめて商工会議所の目的を掲げ、「商工会議所ハ商工業ノ改善発達ヲ図ルヲ以テ目的トス」と謳った。

 商工会議所が商工業の全分野を代表する総合経済団体としての機構を整備し、またその全国組織としての日本商工会議所が法定されるに及んで、会議所の事業活動は広範かつ活発となり、多面的な国内経済問題に取り組むのみならず、対外貿易の振興、国際経済問題にも積極的な努力を傾注するに至った。